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NICKY SIANO

NICKY SIANO

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ディスコ創世記の歴史がどんどんと解明されていっている。現在のこうしたDJの復活は60年代によくあった黒人ブルースマンの再評価と似ているのかもしれ ない。死んだと思われていたブルースマンがどこそこの刑務所で発見!みたいな。それはルーツを知らなかった自分たちの罪滅ぼしなのかもしれない、でもぼく にとって今一番楽しめるDJはニッキー・シアーノなのだ。彼のプレイを聞くと、行ったことのない70年代にタイム・スリップしたかのような気持ちになる。 そしてそれは全然古くさくない、彼がかける音楽は今のどんな音楽よりも斬新でエネルギッシュでポジティヴな気持ちにさせてくれる。それはニッキー・シアー ノだからそうさせてくれるのか、もう誰も分からない、あの頃いたとされる25人足らずのDJはもうほとんど誰もいないのだ。復活したニッキー・シアーノに 乾杯。

── 日本のクラブ・ピープルをどう思いますか?

「教育されているよね、音楽についてよく知っている。反応がいいよね、好きな曲がかかるととても盛り上がる」

── DJを再開したのはいつでしたっけ?

「1996年、9年前かな」

── 昔やってた頃と違いますか?

「もちろん、あの頃は全然お金を貰っていなかったからね」

── あれ? ニューヨークで一番の高給取りDJだったんじゃなかったでしたっけ?

「その頃のDJは一晩で10ドルとか20ドルが普通だった。ぼくは50ドル貰っていたから、それは画期的なことだったけど、でも8時間働いて50ドルじゃね」

── 17歳の時にギャラリーをオープンしたそうですがそのお金はどこから?

「ぼくの兄さんから。ぼくとぼくの彼女はクラブをオープンしたいと思っていたから、オープンする為にはお金がどれくらい必要か調べてたんだ。その話を兄さんにすると“今自動車事故で1万ドル手にしたんだけど、お前の話なかなかよさそうだな”と1万ドル出資してくれたんだ」

── クラブのアイデアは、デヴィッド・マンキューゾのロフトを見て、これをコマシャールに展開すれば成功すると思ったと聞いたんですが。

「ウーン、DJをしていると、いつも店のオーナーがこんなレコードかけろとか言ってくるから、DJをやっていくのなら、自分の店を持つしかないと思ってたんだよ」

── そして成功したと。でもそうしてあなたが作ったニューヨークのクラブ・シーンをスタジオ54が全て台無しにしたと。

「ス タジオ54のドアで毎晩、君は入れる、君は入れない、君はよくないなんて、3年間毎晩何万人もの人にそんなことを言ってきたら、もうニューヨーク中の人た ちがディスコを目の敵にするように成るだろ。それがスタジオ54のカーマだったんだ。もう悪いエネルギーが充満していたんだ。インヴィテーションを持って いるのに、その格好だと入れないとか、全然正しくないだろう」

── シックの名曲『フリーク・アウト』もそうして生まれた唄ですもんね。スタジオ54に入れなくって、怒り狂って『ファック・オフ』と録音したのが原曲ですもんね。

「そ れにスタジオ54はゴモラみたいなもんだったんだよ。どこでもセックス、ドラッグ、お金を湯水のように使って。お金をそのように使ってはダメなんだ。お金 にはリスペクトしないと。そして、プレスが毎日ある事無い事書いて、世界中の誰もがあそこはどうなってるんだと思ってた。スタジオ54がクラブ・シーンを 壊したとは言わないけど、あのクラブがクラブにとってたくさんのよくないことをしたのは事実だ」

── あなたのアシスタントだったラリー・レヴァン、フランキー・ナックルズが新しいシーンを作ったことをどう見てました?

「彼らは友達だったから、誇りに思ったよ。とくにラリーについては、ガラージュの工事中パーティーに行って声援を送っていた。フランキーはシカゴだったから、彼の成功をみじかに感じられなかったのは残念だ」

── あなたのギャラリーがパラダイス・ガラージュに影響を与えたと思いますか?

「もちろん。ラ リーに初めて会ったときはラリーはDJなんて興味なかったんだから、彼はファッション・デザイナーに成りたかったんだ。彼はぼくの所で3年間も働いたんだ よ。そしてラリーはデヴィッド・マンキューゾの友達になったんだ。デヴィッドもラリーに影響を与えていたね」

── 何十年もブランクがあって突然DJをするのは怖くなかったですか?

「自転車を乗るようなものだよ。ぼくは世界で一番最初にビート・マッチさせた男だよ。忘れるもんか」

── そうですね。リキッドルームでのあなたのプレイを見ていて、1971年の時もあなたはああやってレコードを回していたんだろうなと思いました。でもなぜラ リーは復活できなかったのでしょう?フランキーがサウンド・ファクトリーでラリーに「レコードを回すかい」と聞いても、ラリーは怖くって出来なかったと 言ってました。

「うーん、それはラリーだから、ラリーがやりたいと言えば、誰も彼を止めることは出来ない、でも彼がやりたくないと言えば誰が何と言おうが絶対やらない」

── 怖かったんじゃないと。

「まだその時じゃないと思ったんだろ。早い時間だったら回したかもしれないけど、2000人の前で、一番いい時間帯、慣れてない機材、それはハードだろ」

── でももしその時回していたらラリーは戻ってきたかもしれませんよね。

「どうだろう。でもラリーは死ぬ必要はなかったんだ。2日早く病院に行っていたら死ななかったわけだし」

── ミックスCDを出す予定はないんですか?

「それよりも『キッス・ミー・アゲイン』の ニュー・ヴァージョンをリリースするんだけど、そんな感じで新しい音楽を作っていきたいね。それとソウル・ジャズから70年、71年、72年45インチの シングルを集めた2枚組のCDをリリースする。タイトルは『45s ザッツ・ゲイブ・バース・トゥ・ディスコ』これはいいアルバムになると思うよ。長い間完成させれてないギャラリーの映画を完成させたいね。もう後は編集だ けなんだ」

── それは楽しみです。次の来日はその映画と共にがいいですね。期待しています。

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