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INTERVIEW

JESPER HAYNES写真展『Life と Art の曖昧な線〜St. Marks 1986-2006〜』

JESPER HAYNES写真展『Life と Art の曖昧な線〜St. Marks 1986-2006〜』

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リアルな街には必要なもの——カオスさ、クレイジーさ、邪道さ
1986ー2006年、ニューヨークのとある街角の先鋭なる記憶

 壁にディスプレイされた額縁もない生のプリント、フロアにはタイルのように敷かれた白黒のコンタクト・シート。そこに写るは恋人、友人、友人の友人、赤の他人……その肩書きは、アーティスト、カメラマン、ミュージシャン、パンクス……そして、ただその時、そのニューヨークのイーストヴィレッジの街角にいて、そのカメラマンのすぐ近くで刺激的な時間を共有したなにものでもない人々だ。
 4月16日から4月27日まで、Time Out Cafe & Diner Galley Space(Liquid Room2F)にて行われている写真展:Jesper Haynes『Life と Art の曖昧な線 〜St. Marks 1986-2006〜』は、そのタイトルの通り、写真家ジェスパー・ハインズが1986〜2006年の間に暮らしてたニューヨークのイーストヴィレッジにあるとある街角で行われた刺激的な生活と、それを取り巻く人々を収めた写真たちで構成されている。カルチャーの中心地として君臨していたニューヨーク。その磁場に引き寄せれたボヘミアンたちのフリーキーな生活の記憶。ごみごみとしたストリートのエネルギーを吸い込み、生き生きとしたニューヨークのアンダーグラウンドを闊歩した人々の息づかい、笑い声、ときには悲鳴や怒号までが写真から聞こえてくるようだ。
 この写真展を紹介するべく、ジェスパー本人にメール・インタヴューを試みた。
 その言葉に見え隠れするは、失われてしまった浄化されていない混沌としたニューヨークの先鋭的な風景への深い愛情だ。



── まずはじめにあなたはなぜ80年代にニューヨークに移り住もうと思ったんですか?

ジェスパー当時16歳の僕はスウェーデンのストックホルムに住んでいたんだ。だけど『タクシードライバー』『ミーン・ストリート』『フレンチ・コネクション』(編注1)とか、70年代の映画を観て、ニューヨークに憧れていたんだよ。それから1978年の夏、祖母に会いにテキサスに行くことになったんだけど、その途中で、初めてニューヨークに実際に滞在することができたんだ。そしたらすぐに街が気に入って。だから学校を卒業した後、スウェーデンからニューヨークに移り住んで。5日間の滞在の予定が2ヶ月に伸びて、最高の夏の思い出だったね。毎日違う人の家を渡り歩いて、寝床を確保しながらの2ヶ月。とくにその頃に行った〈Studio 54〉(編注2)は最高だったね。とにかくなんでも手に入ったんだ。例えて言うならキャンディーストアにいる子供だね。そして最終的には80年代の頭にスウェーデンからニューヨークに本格的に引っ越して来て、さまざまな写真家のフォト・アシスタントとして働いたあと、ラルフ・ギブソン(編注3)の暗室専門のプリント(現像)係として多くの作品を手掛けたんだ。1日1ロールのフィルムを撮影する習慣がついたのもその頃だね。

── 今回の展示のコンセプトは、あなたが過ごした20年にも渡るニューヨークの生活そのものであると思うのですが。

ジェスパー今回の展示はニューヨークのイーストヴィレッジにある1stアヴェニューとセント・マークスの角にあるアパートでの出来事なんだ。1986年に引っ越した当時は、世界で最も最高な街角だった。そこはアーティストや変態たちのいる楽しい街で、このセント・マークスと1stアヴェニューの街角は、いつなにが起きてもおかしくない状況にあったんだ。もちろん自分のアパートも、下から呼び鈴の音が聞こえると人が現れ、そしてたまり場と化していったんだ。そのパーティは20年間もその後続いたんだけど(笑)。見知らぬ人や、恋人、友人、友人の友人、ルームメイト……ノンストップのショーが行われていたよ。だけど2006年にそのアパートの大家が死んで、娘が引き継いんだけど、みな追い出されたんだ。あの頃すでにイーストヴィレッジは、すでに面白味も愛も無い街になっていたんだ。さようならを言うときがきたんだ。この展示は、ニューヨークのイーストヴィレッジをそんな特別な街に彩っていたすばらしい人たちによって形作られているんだ。

── あなたは2006年に追い出されるようにニューヨークを後にします。さて、あなたが出て行かなくならざるような雰囲気の街になったのはなにが転機だと思いますか? 街をクリーンにしたジュリアーニ元市長(編注4)ですか? それともやはり911が死刑宣告のように街を大きく変えてしまったと思いますか?

ジェスパー911に関しては、気持ちの整理を付けるのはニューヨーカーが1番早かった気がする。他の州ではFoxニュース(編注5)などを観ながら、テロ攻撃の再発に洗脳され、強迫されていた。むしろ本当にニューヨークを大きく変えたのは、エイズの問題とジュリアーニが市長になったことじゃないかな。エイズという問題そのものが死刑宣告ではなく、実際にニューヨークを殺したのは自らの政策を実行したジュリアーニ市長だと言えると思う。彼の政策によって、ニューヨークのすばらしくクリエイティヴな人々やセクシーなナイトクラブの多くが打撃を受けたんだ。さらにHaoui Montaug(編注6)のようなクラブ・シーンをとてもユニークにしていた人々が亡くなりニューヨークの一部が死んだんだ(Montaugがエイズで死亡しているため、ここは恐らくこれはエイズによる影響を言っている)。
 ジュリアーニ元市長は意地悪で悲しい魂の持ち主だ。彼が街のおもしろみに対して興味を無くしてしまったとき、他の人の興味も消えた。例えばまず最初に彼が力を入れてやったことは、セントラルパークのローラー・スケート場での音楽演奏禁止だ。そういった行為が悪い要素を誘導するからという理由なんだけど、それはゲットーの下級クラスの人々に対する人種差別そのものだよ。
 僕が思うに911よりTVドラマ・シリーズの『Sex and The City』がニューヨークに変化を与えたと思う。あのドラマはニューヨークのアッパー・ウェスト・サイドの白人主義のパーティばかりを紹介しているんだ。それはリアルなストリート・スマートで苦境に耐えている人がいる本当のニューヨークの姿ではないと思う。あのドラマのお陰で、白人の金持ちで馬鹿な人間がいまやオシャレだと思われてる。だから多くのアメリカ中部のキッズが両親に頼んで、ニューヨークに移住しているんだよ。でも、それは『Sex and the City』に映る生活を夢見てね。ニューヨークに来れば、あれはタダのTV番組のなかの世界だったって初めて気がつくんだろうけど。そうやって、ゆっくりとニューヨークは資本主義の地獄へと傾き、大家は強欲になり、家賃が上がっていく。そういう人たちには家賃の上限金額なんてないものでね。

── 80年代のニューヨークといえばアートやロックのシーンもさることながら、クラブ・シーンにおいても〈パラダイス・ガラージ〉(編注7)があったりとアンダーグラウンドでエネルギッシュな動きがありました。クラブ・シーンとの関わり合いはありましたか?

ジェスパー当時のニョーヨークには良いスポットがたくさんあったね。〈Mud Club〉、〈Peppermint Lounge〉、〈Old Danceteria〉、〈Berlin〉、〈AM-PM〉あたりはとってもクールな場所だった。〈パラダイス・ガラージ〉はいち度だけ行ったことがあるけど、記憶が無いぐらいぶっ飛んでたのはたしか。すばらしかったけどほとんど憶えてないから(笑)。〈Area〉というナイトクラブのそばに住んでたから、そこには週5回のペースで2〜3年ぐらい通ってたんだ。僕にとってはニューヨークでプロデュースされたナイトクラブのなかでは、最高の場所だったと思うんだ。当時はカナルとハドソン・ストリートの角にある、ラリー・クラーク(編注8)のアパートを借りてたんだ。そこは〈Area〉から数ブロックの距離にあっったから、どれだけ潰れてもすぐに帰れる距離だったんだ。そのときのガールフレンドがDJで、彼女は〈Area〉や〈Neil’s〉や〈MK〉でよくプレイしてたんだ。一度、プリンスが木曜夜の〈Neil’s〉に現れたことがあったんだよ。彼はDJブースの中に立って、人が踊る姿——ほとんどゲイと黒人で埋め尽くされたフロアの超絶ダンサーたちを眺めていたんだ。

── 質問を戻しましょう。あなたが愛したニューヨークの刺激的な時代にはとてもいろいろな人がいて、信じられないエピソードも沢山ありそうですが、当時の雰囲気がわかるようなエピソードや失敗談などがあったら教えてください。

ジェスパーいちどアメリカ人のフォト・アシスタントでイアンという名前のルームメイトがいいたんだ。そいつはいちども洋服を洗濯しないやつで……数ヶ月後には彼の部屋から異臭が酷くて。それでもうひとりのルームメイトと一緒に彼の部屋のすべての洋服を黒いゴミ袋に入れて、ロープで窓の外にくくり付けたんだ。その洋服はその冬、ずっとそこにぶら下がっていたのを憶えいているよ。彼はいちども自分の洋服の行方を聞きかなかった。でもナイスでとってもいいフォト・アシスタントだったよ。あとは他にジョーゲンというフォト・アシスタントがいて、よく遊びにきてたんだ。とにかく記憶を失うまで呑む奴だった。だから帰りなんかフラフラで、いつも心配して「下までタクシーを呼ぼうか?」って訊くと、「大丈夫!」って言うんだ。でも翌朝、朝食を食べに階段を降りてドアの外に出ると、彼が道の外で寝てる。それもかなりの割合でね。

── そういった人たちが今回の展示では主役となっていると思うのですが、写体を選ぶときの基準はあるのでしょうか?

ジェスパーモデルと出会うのは夜のシーンが多いね。ニューヨークでは自転車に乗っているときが多いかな。人と出会うのには最高の機会なんだ。実際、多くの写真のモデルは自転車に乗っているときに出会ったんだ。人に出会うのは大好きだし、写真を撮るのも大好きなんだ。写真は、人と知り合うのには最高の方法だよ、とても感覚的なできごとでもあるのでね。

── あなたの作品は当時暮らしていたライフスタイルのドキュメンタリーとしての側面でありアートとしての側面、ふたつの側面があると思います。あなた自身はどちらだと思いますか?

ジェスパー両方だね。僕にとって、ドキュメンタリー写真は写真の表現方法として最も興味深いものだと思う。僕は展示や写真集を観ても、大体パーソナルに訴えかける作品に魅力を感じる傾向がある。カメラ・ファインダーを覗いていた、その写真を撮ったアーティストのことをもっと知りたいと思ったりね。コンセプト写真は好きじゃないね。嘘くさいから。リアルで人間らしさが出ている写真が好きなんだ。

── 今回の展示で使われている写真は、見たところさまざまなカメラが使われているようですが、具体的にあなたが使っている、もしくはお気に入りのカメラを教えてください。

ジェスパーカメラはNikon FM2から。その後は使えるカメラならなんでも使ったんだ。でも、Pentax 6X7が好きかな。美しいレンズだ。やわらかくて、クリーミーさがある。ポラロイド・カメラも好き。あとはHorsemanの4X5のフィールド・カメラをしばらく使ってたね。あとは現在のデジタルの時代になってからは、デジタル・カメラのNikon D700が好き。低照明のノイズ感が粒子ぽくて、夜撮影するには最高のカメラだね。他に好きなのは小型のYashicaのT4。いまでも使ってる。それにいまでも家の暗室でフィルムを現像しているよ。その作業は、なんて説明していいのか……私には瞑想効果があるので。

── では、あなたの目から見て、現在の東京という街は被写体として魅力的ですか?

ジェスパー東京を試写体として撮影するのは大好きだね。東京はなにか魅力的なバイブがある。メランコリーな悲哀感さえも感じるよ。綺麗な街ではないけれど、でもそれはリアルな街には必要なもの——カオスさ、クレイジーさ、邪道さが備わっている場所だということだと思う。

── 最後の質問です。もし歴史上の人物をひとり録れるとしたら誰を取りたい? 理由も教えてください。

ジェスパーアンディ・ウォホールは16歳の時にストックホルムで会ったんだけど、あの時はそれこそウォホール・ファクトリーにすごく夢中でったんだ。ミノックス(ドイツの超小型カメラ)で1ロールも撮影したんだ。あのあとニューヨークに行ったあとでもちゃんと連絡をとっておけば、もっと良いショットが録れたんじゃないけど悔やまれる。他にも実際に会った人で、すばらしい人柄だと思ったのは、アレン・ギンズバーグだね。彼は同じくイーストヴィレッジに住んでいたのにも関わらず、何故か一度も撮影するご縁に恵まれなかった。撮影してみたかったね。

(編注1)それぞれニューヨークを舞台にした70年代の映画。いずれもニューヨークの華やかな表舞台ではなく麻薬取引の横行する裏社会やイタリア系移民の姿、孤独に苛まれる鬱屈した若者などを描いた。マーティン・スコセッシュとタクシー運転手、トラヴィスを怪演したデ・ニーロのコンビの『タクシードライバー』は映画や漫画などにも大きな影響を与えている。
・『タクシードライバー』(原題:Taxi Driver)1976年/監督:マーティン・スコセッシ、出演:ロバート・デ・ニーロ他。
・『ミーン・ストリート』(原題:Mean Streets)1973年/監督:マーティン・スコセッシ、出演:ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテル他。
・『フレンチ・コネクション』(原題:The French Connection)1971年/監督:ウィリアム・フリードチンキ/出演:ジーン・ハックマン他。
(編注2)世界的に著名なデザイナーからアーティストなどとにかくセレブが集った当時のニューヨークのナイト・シーンを代表するディスコ/ナイトクラブ。
(編注3)1939年生まれ。1960年代末から台頭したカメラマン。クローズアップやフレーミングを効果的に使った大胆な構図による荒い粒子のモノクローム作品が高い評価を受けた。
(編注4)ルドルフ・ジュリアーニ。1994年〜2001年にニューヨーク市長を務める。犯罪撲滅のためのストリートの浄化に尽力した。その反面、その矛先としてナイトクラブやディスコなどナイトスポットの多くが取り締まりの対象となり壊滅状態に陥ったと言われている。
(編注5)アメリカのニュース専門放送局最大手。特に911以降、イラク戦争時に至るまでに保守的傾向を強めた。マイケル・ムーアの『華氏911』などで、その偏向報道でイラク戦争を煽ったとして批判されている。
(編注6)〈Studio 54〉のドアマンなどを務めたニューヨークのナイトライフの重要人物。1991年にエイズで死去。
(編注7)1977〜1987年にニューヨークのキング・ストリートに存在した伝説的なゲイ・クラブ。レジデントのラリー・レヴァンのミックス・プレイは、同時代のシカゴのフランキー・ナックルズやロン・ハーディーのプレイとともに、ハウス・ミュージックの源流のひとつとなった。
(編注8)1943年年生まれのカメラマン、映画監督。彼の写真集『タルサ』は、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』、ガス・ヴァン・サント監督の『ドラッグストア・カウボーイ』に影響を与えたと言われている。

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