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Theo Parrish

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121117

久々のセオのDJと、この場で出会えたことが嬉しくて仕方がなかった

 いきなりプライヴェートな話で恐縮だが、先日引越の荷造りをしている最中に、もう何年も開けてなかった段ボールを押し入れの奥から発見した。その中には存在すら忘れかけていたカセットテープが何十本と詰まっていたのだが、そこにセオ・パリッシュのミックステープがあった。
 自身のレーベルSound Signatureからリリースされた『Live In Detroit 1999』という90分のテープは、コピー印刷のスリーヴがボロボロになるほどにかつて随分と聴き込んだもので、とても愛着のある1本だった。だから、その発見は僕にはとてつもなく嬉しいことで、しばし作業の手を休めて、カセットデッキ(たまにハムノイズが乗るがいまだに手放すことができないでいるTEACの古くて重いデッキだ)で再生をしてみると、ヒスノイズの中から柔らかなグルーヴが立ち現れてきて、時間が止まっているような錯覚を覚えた。
 何というタイミングの良さなのか、ちょうど、その一週間後に、僕はリキッドルームでセオのDJを聴いていたのだが、そこでも同じ感覚に襲われた。時間が止まっているというのは、古い想い出がただ反復されているということを言いたいわけではない。そうではなくて、時の流れを経てもなお不変的であるとはどういうことなのかを、ポジティヴに伝えているという意味だ。いまや、クラブ・ミュージックも懐古趣味と隣り合わせの世界にあるが、セオのDJは、ジャンルの繋がりや連なりを軽妙に乗りこなして、反復の中に停滞とは無縁の価値を刻み続けている。
 そういえば、『Live In Detroit 1999』を散々聴いていた頃、確か2000年くらいだと思うが、セオにインタビューする機会があった。饒舌な彼は、シカゴのギャングから、ジョン・ケージのサウンド・スカルプチャーまで、実にさまざまな興味深い話をしてくれたのだが、そのとき、「こうして話すことによって、自分自身が何となく考えていたことをもっとよく理解ができるようになる。自分も初めは何が起きたのか説明できなかったことも、インタビューで人に説明をしようとするプロセスで気が付くことがある」ということを言っていて、その言葉が彼のDJとしてのスタンスとも重なっているようで、印象に残った。
 この夜、リキッドルームのサウンド・システムは極上の鳴りを響かせていて、セオは当然のようにレコードでプレイし、その鳴りを本人も十二分に楽しんでいるようだった。もちろん来ている人達もだ。セオ独りのロングプレイ。でも、それはフロアとの対話の上に成り立っているものだと、改めて感じた。彼が次のレコードを取り出すたびに、フロアとの音楽のシェアは始まっていて、そこでかかる音楽は本来の意味での媒質となって、我々の身体を揺さぶりながら、その記憶を弄ったり、嗜好を刺激したり、直観を呼び覚ましたりする。
 まさかのニルヴァーナからJ・ディラに捧げた“Suite for Ma Dukes”へ、それをオマーやアル・スチュアートにまで繋げていく様を心地良く眺めていると、DJやクラブの自由や価値について考えるなんて野暮なことは無しにしたい気分になるのだが、とはいえ、この夜のような場が、いまの東京のクラブ空間では希有であり、こういった場こそが成立してほしいと強く願うのだ。つまり、良い音響と、自由で素晴らしい音楽と、その音楽と対話するお客さんとのシンプルで満たされた関係を大切にする場だ。ディテイルとプロセスを楽しむ場だと言い換えてもいい。ともかく、久々のセオのDJと、この場で出会えたことが嬉しくて仕方がなかった。そんな夜だったのだ。

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